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働くと生きるの境界を考えてみる (1)

働くと生きるの境界を考える(1)

本記事は、株式会社小川製作所の取締役 小川真由さんの個人ブログ「日本経済復活の処方箋とは!?22世紀のモノづくり」で掲載された投稿を、同氏のご好意によりTOKYO町工場HUBに同時掲載させて頂いているものです。ぜひ多くの方々に読んで頂ければと思います。

− TOKYO町工場HUB

仕事の価値をマーケティングする

今回のテーマは、「生きること」と「働くこと」の境界を考える事です。

今風に言えば「ワークライフバランス」ですね。ここでは私自身のバックグラウンドをご紹介しながら、「中小企業経営者」や「従業員として働く人」の生活や働き方とその対価について考えてみたいと思います。

当社は、現在「医療器具」や「食品機械」の溶接加工、研磨加工など、職人にしかできない仕事を「社内工程」に持ちながら、「航空機」や「半導体製造装置」など先端分野の「機械部品製造」、機構設計や組立などお客様と一緒になっての「製品開発支援」等の事業を行っています。

2012年に私が修行から家業に戻り、当時は父、母と3人で再スタートした事業ですが、お陰様で2015年に法人化を果たし、現在では家族以外の従業員も含めて6名の社員で仕事をしています。

何とか一端の「会社」としての体裁は整ってきましたが、まだまだチャレンジすべき課題も山積みです。

その中で、最も大きな課題が「自分たちの仕事の価値をマーケティングすること」です。つまり、価値を金額に置き換える勇気と方法論を持つこと。自分たちの価値をきちんと評価し、価値を認めてもらい、適正な価格で提供するという一連のマーケティング活動が、町工場にも大切であると考えています。

このブログを通じて最も訴えたいテーマが、まさにこのことです。

このテーマは当社1社が主張したところでどうにもなりません。なので、少しずつでもこのブログ等を通じて、同じ考えに賛同していただける仲間を募っていきたいと思っています。

このブログは、同じ中小企業の経営者の皆さんや、大小問わず企業で従業員として働いている方、あるいは学生さんなどで、今の日本経済はこのままだとちょっとまずいんじゃないか、と思っている方に読んでもらえればと思っています。

少なくとも、今後の日本経済や自分たちの置かれる立場について危機感を持っている方と、問題を共有し、その解決策を少しずつ一緒にひも解いていければと考えています。まさに日本経済復活への処方箋を、22世紀へ繋がる仕事とは何かを、少しずつ考えていくという試みです。

まず、重要なことは、自社の価値をきちんと自己評価することです。自社の歴史を振り返ることは、その第一歩となります。ここでは当社の変遷が、まさに典型的な日本の個人事業や中小製造業の歩んできた道のりと重なる部分が多いので、「実例」の一つとしてご紹介するとともに、「働くこと」と「生きること」を考えるきっかけとなればと思っています。

当時の工場内。今もほとんど当時のままです(写真提供:株式会社小川製作所)

祖父が創業

それでは、始めてみましょう。

私は都内の町工場の長男として生まれました。実家の敷地内に小さな工場(こうば)があり、そこで祖父と父が昼夜働いていました。祖母や母も仕事を手伝っていたのを覚えています。

私が生まれた当時(40年位前)は、父の兄弟たちも結婚前だったりしたようで、私含めて11人家族(!!)だったそうです。これだけの大所帯は、昨今ではなかなか考えられない事ですね、当時でも珍しかったようです。

私が生まれたころは、バブルの時期という事もあり、羽振りの良い時代もあったようです。祖父が毎日のように飲み歩いていたような記憶が、少しながら残っています。

当社は私の祖父が、終戦直後に個人事業として創業しました。祖父は、戦争に行く前は厨房関係の板金加工をしている工場で働いていたようで、その技術を生かして独立したそうです。

当時は、学校給食が始まるタイミングでもあり、大量に炊飯が可能な「ガスオーブン」を製作する依頼が多かったようです。

その他にも料理店向けの「ガス台」や、厨房内の各種備品を製作するという事業をしていました。

規模は小さいながらも”メーカー”として事業をしていた様子が窺えます。

料理店向けガス台(写真提供:株式会社小川製作所)

私も小学校の頃は、部品の磨きや養生を手伝いました。中学生くらいになると、夏休みなどに「ボール盤」で金属に穴を開けたり、「三本ロール」という機械で金属の板を曲げたりして、お小遣いをもらっていた事を覚えています。

10時や15時のおやつの時間には、祖父と父が仕事の打ち合わせをしながら、母や祖母の淹れたお茶で休憩を取ります。取引先の社長さんが来て、3人で談笑の合間に仕事の話をする、という風景も多々目にしました。

忙しい時期は21時くらいまで工場内での残業を毎日のように繰り返していました。私はそのような状況を身近で見ながら育ちました。

私自身はこれが当たり前の生活でしたし、働く=生活するという感覚はこの頃から染みついていたように思います。

個人事業者が多い地域柄なのか、同級生にも、親が「建設業」「内装業」「製本業」「運送業」などの仕事を家業としている友人が多かったです。なので、私だけが特殊な環境で育ったわけではないと思います。

学校給食用のガスオーブン(写真提供:株式会社小川製作所)

風向きの変化

風向きが変わってきたのは、1990年代半ば頃からでしょうか。厨房関連の設備は大手メーカーの独占するところとなり、厨房器具の製作については当社への依頼が急激に減っていったようです。恐らくその他の業種でも、同じような事が起こっていたと思われます。

父は新たに建築関係の金属部品を製作する事業を、並行して始める事になりました。幸いなことに、父の知人が近所で建築関係の事業を手掛けていたため、そこからの金物製作の依頼を一手に引き受けていたようです。

その頃には祖父も一線から退き、材料を切るなどの補助的な仕事を手伝うようになっていました。何名かいたという従業員も、その頃にはいなくなり、工場内では父と祖父だけで仕事をしていました。

2000年頃、その知人の会社が廃業してしまいます。ほぼ一社依存だった父の事業は、「方向転換」か「廃業」かの岐路に立たされたわけです。

当時大学生だった私も、さすがに父母から事業がうまくいっていない、と告げられました。ちょうど、その頃に祖父も他界します。

耐える日々

父の出した答えは、意外にも「現状維持」でした。ずっと長い間職人として働いてきて、今更業種変更や営業活動などできない、という事情もあったのでしょう。他の仕事に手を出すよりは、少ないながらも流れてくる今の仕事だけで、凌いでいこうということです。

私も何かできないかと思い、就職した大学の先輩に、当社でできる仕事が無いか相談したことを覚えています。

その後も、細々とですが少ない仕事で耐え忍んできました。私が家業に合流する直前では、恐らく最盛期の数十分の一程度の仕事量だったのではないかと思います。

サラリーマンをしていると、「仕事を与えられる=自分の負担が増える」というイメージだと思いますが、事業を営んでいると「仕事が無い=事業が継続できない」ことに直結します。ですので、「仕事がある=非常にありがたいこと」です。

以上が典型的な、実際の小川製作所という個人事業の変遷です。

同じような推移で概ね2000年を迎える前に、廃業を余儀なくされた個人経営や中小の事業体が多かったように思います。私も含めて、その子供たち(現在の30代後半~40代中盤くらい)は、自然とサラリーマンになる道を選んだ人が多いのではないでしょうか。

こんな働き方がある

父は今70才を超える高齢者ですが、経営者である現在も、板金職人としてバリバリの現役です。平日はもちろんですが、土日も、マイペースに仕事してます。仕事の合間に、趣味の植栽いじりや孫たちと遊んだりしています。生活と仕事に境界が無く、一体化しているのですね。

働き方改革が叫ばれる昨今、こんな働き方もあるのだと日々考えさせられています。

中小企業経営者は、区分としては労働者ではありませんが、自らが事業のプレーヤーとして働く人も多く、極めて一般の労働者に近い存在です。後日触れることにしますが、実は中小企業経営者は労働時間に縛られず自分のやりたいことを追求できる唯一の職業ではないかと思います。

当然その分、多大なるリスクを負うわけですが、何か人に誇れる技術やアイディアを持っていれば、自分の好きなように「働くこと」と「生きること」を一体化した、やりがいのある生活が送れるのではないでしょうか。

大手メーカーに就職

私は、大学卒業後に大手メーカーに就職し、エンジニアとして、労働者・従業員として働く事を経験しました。

その時に感じたのは、特に大手企業ほど、労働者として保護されすぎているという居心地の悪さでした。夜10時になったら労働組合の人が回ってきて会社を追い出されたり、有給休暇を取らなければいけなかったり、、、

それまで大学の研究室で、散々泊まり込みの自堕落な「研究生活」を送っていた不健康社員としては、このような労働環境に物足りなさを感じました。

なんという「不良」社員だったことか、と思います。それもこれも、きっと小さいころから生活=働くが染みついてしまっていたが故だろう、ということは最近になって知ったのです。

その感覚が、修行時代の「自己ブラック化」に繋がっていくのでした、、

(つづく)